Japanese Font Encoded |
HOME > ポルトガル語 > ポルトガル語について ポルトガル語について1.使用地ポルトガル語を公用語としているのは、以下の国です。( )内は人口概数。
見たとおり、旧植民地がそのまま、というものです。他に、インドのゴア、中国のマカオなどにも一部ポルトガル語コミュニティが存在しましたが、現在ではほぼ消滅してしまった模様?現存する各地でも公用語以外の現地語の通用・混在ということはありますが、特にポルトガルとブラジルでは、多数派を占める状態が揺らぐことはなさそうです。 1-1. 似た言語のグループ言語学では、歴史的に成立の起源を等しくする言語グループが「語族」として括られることがあります。ヨーロッパと一部アジアの多くの言語は「インド・ヨーロッパ語族」に属し、ヨーロッパで使用されている言語は、主にそのうちの5つの分派に相当するとされています。
スペイン語の方言?研究分野の縄張り争いみたいな話になりますが、スペイン語方面の人の中に、ポルトガル語はスペイン語の方言(みたいなもの)という話が出ることがあります。まぁ、「みたいなもの」と言っているうちは、そうではないということなので、問題ないですが、言い切ってしまうとちょっと問題です。どの辺を指して「ポルトガル語」「スペイン語」と分けるのか、からズレが出ますが、「ポルトガル文学」らしいものが出てきた頃(ちょうどスペインがポルトガルを併合した頃)のことを指して、「(もともと大した違いなんぞなかったのに)抵抗のために独自の正書法を作り出し、それが『ポルトガル語』となった」みたいな話は、事実誤認でしょう。どちらも基本的に俗ラテン語をベースとしながら、ローマ人やカトリック教会やアラブ人の入り込み具合、レコンキスタの進み具合、、、といった、似てはいるけれども、構成員やタイミングを異にする独自の歴史を歩む中で、それぞれの地で並行して出来上がっていった言語、という関係を、「標準語対方言」と言うな、ということなんですが、、、考えてみると、「方言」なんて、そんなもんかもしれないですね。あとは政治力の差次第。とりあえず「あれはアラブ人にわからないように暗号化したスペイン語だ」などという(どこぞのスペイン人のヨタ話としか思えない)話をもっともらしく披露するセンセイには注意してください(本当にいるから怖い)。 面白い題材として、ガリシア語があります。ガリシアはイベリア半島がイスラム勢力に支配されていた頃に半島西部のキリスト教徒の反抗拠点となったところで、ポルトガルとの縁が深い土地ですが、スペインに所属することで、ガリシア語の表記にあたってはカスティーリャ流の正書法が採用されています。ところが、血は水より濃いというか、これをポルトガル語流の正書法に置き換えるだけで、相当ポルトガル語っぽくなります。そして、それをポルトガル語と比較することで、ポルトガル語におけるイスラムの影響なんかをあぶりだすことができたり、、、うーん、マニアック。(N○Kで発音指導やってるベゴニャ・ビジャマリンさんが実はガリシア出身らしいですが、ガリシア語やポルトガル語を話すんでしょうか?) という脈絡をより深く見てみたい方は、以下の歴史編をご覧ください。 2.歴史2−1.民族大移動からポルトガル建国まで駆け足2−1−1. 民族大移動ケルト人準備OK?紀元前2000年ごろ、インド・ヨーロッパ語族の言語を話すケルト人が中央アジア〜西アジア方面から、中部ヨーロッパに移動しました。一方、当時のイベリア半島に住んでいた人々はイベロ人と呼ばれます(というか、イベロ人が住んでいるところなのでイベリアと呼ばれたのでしょうが)。イベロ人は、北アフリカ系とも、本当の原住民ともいわれ、実際のところ、その素性はよくわかりません。後にやってきた民族からの伝聞がギリシャやローマの文献にちらりほらりと残っているところから、その存在が想定されているといったところです。 南(海)からフェニキア人がやってきたそんな文献を寄せ集めてみると、紀元前1000年ごろに、地中海をわたって活動したフェニキア人がイベリア半島にも到来した形跡があります。その頃には、聖書で言うタルシシュのような都市が現在のアンダルシアにあったり、カディスやファーロのあたりにフェニキア人の居留地がつくられていたようです。フェニキア人はこの土地を Isephanim 「ウサギの国」と呼び、ラテン語のHispania、現在のEspaña、(Espanha、Spain)の語源となりました。 ケルト人がピレネー越え紀元前900年〜同600年頃には、ケルト人がさらに西へ移動し、現地人を支配したり、混血したりで、、、結果的にフランスのガリア人、ブリテン島のブレトン人が形成されていったように、イベリア半島でもイベリア人とくっついて、セルティベリコ(ケルト+イベリコ)と呼ばれるグループが形成されました。現在のポルトガルに相当する地域の住民については、次にやってくるローマ人の記録が手がかりとなりますが、南から、ケルト人、ルシタニア人、ガラエキア人、が住んでいたという、、、その、ルシタニア人とガラエキア人の素性については、ケルト人なのか、セルティベリコなのか、ケルトの影響下にあるイベリア人なのか、諸説ぷんぷんです(とりあえず「ケルトっぽさ」はあった模様)。 2−1-2.ローマ化ローマ人が来た第一次ポエニ戦争(紀元前264年〜同241年)でローマに敗れたカルタゴのフェニキア人の一部はイベリア半島へ逃れ、新カルタゴ(現在のカルタヘナ)などを拠点として再興をはかります。そして、ハンニバルの活躍で知られる第二次ポエニ戦争(紀元前218年〜同201年)、第三次ポエニ戦争(紀元前149年〜同146年)へと繋がって、、、結局、二度・三度、ローマの勝利となるわけですが、この戦争を通して、「カルタゴ勢の巣」と目をつけられたイベリア半島は、戦後処理でローマ領ヒスパニアとなります。抵抗は激しく、全域支配に到るのは紀元前後になります。あるいは、ガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)遠征のほうが、ローマ人の優先課題だったのかもしれません。 ヴィリアトの抵抗ルシタニア(ポルトガル)では、元牧童の極道(?)ヴィリアトの一派の抵抗が有名で、紀元前150年から10年ほどゲリラ戦でローマを悩ましたそうです。最後に部下の裏切りで殺されるあたり、スコットランドのウィリアム・ウォレスみたいです。 ローマ人も寝返った?紀元前88年、ローマでは東方遠征をめぐって「マリウスとスラの争い」が起きました。結局、スラの勝ちになりますが、マリウス派だったクイントゥス・セルトリウスという高官が、スラに苛められているのを見て取ったルシタニアの勢力がセルトリウスを招聘。これに応じたセルトリウスは、一時イベリア半島のほぼ全域を支配するほどの勢いを得ます。結局は、ポンペイウス率いる征討軍に追い詰められて、紀元前72年にセルトリウスは暗殺されますが、この間に彼は、ヒスパニアにマリウス派を集めて、新ローマを作ろうとした形跡があります。政治・行政ノウハウの伝達のほか、現地人対象の学校まで建設するという念の入れようで、半島のローマ化にはずみをつけるきっかけとしては上等だったといえるのではないでしょうか。 続いて、カエサルが紀元前61年〜同60年に派遣され、ブリガンティウム(ラ・コルーニャ)あたりまで、徹底した掃討戦を行ないます。イベリア半島の全域がローマの支配下に入るのは、この後、紀元前19年のことです。 このあたりから、9世紀にいたるまで、イベリア半島の言語事情は俗ラテン語から現代のロマンス各語に向けて徐々に変化していきます。 植民地、、、といっても帝国主義時代の搾取地とは違うようでセルトリウスが倒れても、半島の教育活動は続いたようで、半島出身のセネカ(紀元前40年ごろ〜後65年)やクインティリアヌス(42年〜117年)といった文人がローマで活躍したほか、ローマ5賢帝のうちの2人、トラヤヌス(在位:98年〜117年)、ハドリアヌス(在位:117年〜138年)といったトップ政治家まで輩出しています。半島各地の都市はやがてローマ法の適用を受けるようになり、212年にはカラカラ帝の命によって、ヒスパニア人は正式にローマ市民となりました。 ローマ化は、実質的には学校や交易機会のある南部の都市が中心でしたが、政治、文学、そしてキリスト教を通じて、徐々に浸透していったと思われます。 ゲルマン人も来た(けどなにか?)民族大移動といえば、4世紀末から6世紀にかけてのゲルマン民族のものが有名です。ブリテン島へ入ったアングロサクソン族(ジュート族、アングル族、サクソン族)が、イギリス史の主役級の役割を担っていくのに対し、イベリア半島では、それほどの影響は見られません。411年にスエヴィ族が半島西北部に進駐、西部中央(後に北アフリカへ移動)にはヴァンダル族、南部にはアラン族が、後にはヴィシゴート族が強大な王国を築きました(507年〜711年)。こうした侵攻については、野蛮人が斧を振り上げておりゃーと殴りこんできたような印象を受けますが(そうではないとは限りませんが)、特に最後のヴィシゴート族はローマのお墨付きを得た治安維持目的、あるいは、ローマ、ラヴェンナ、コンスタンチノープルといった中枢からゲルマン人を遠ざけておきたいというローマ人の意向でやってきたようにも見えます。結局はその甲斐もなく、476年にラヴェンナをゲルマン人傭兵オドアケルが占拠し西ローマ帝国は消滅。名実ともにイベリア半島のローマ権力は空白化し、ヴィシゴート王国が定着することになります。 言語的には、luva (手袋)、espeto (串)のほか、roubar(盗む)、guardar(守る)など、若干物騒な語彙が採り入れられました。Fernando、Rodrigo、Adolfo などの人名も、ゲルマン起源です。地名では Guimarãesなどがあります。ただ、文法・語法の面で大きな影響があったような形跡はありません。ゲルマン人の絶対数が少なかったこと、ローマ系文化が既にかなり浸透していたこと、ゲルマン人側にそれを翻すような文化的優位性がなかったこと(と言い切るとナンですが)によると思われます。 むしろ、定着を続けていたカトリックの影響が強まり、ローマが倒れたところで、いよいよもってこっちが頑張るときだと張り切ったようです。現在、ポルトガル語だけ曜日の言い方が変わっているということもありますが、その違いが生じてきたのは、この頃に起因する話のようです(>参考:曜日の話)。 2−1-3.イスラム化とレコンキスタ711年、アラブ人、ベルベル人の混成部隊がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵攻。ヴィシゴート王ロドリゴもさっさと戦死。713年には半島のほぼ全部を一旦支配しました。キリスト教側も若干押し返し、現在のガリシアからカタルーニャを結ぶ線がとりあえずの境界となりました。イスラム勢力もなんとなく来てなんとなくやられたわけではありません。当初侵攻したのは基本的にウマイヤ朝の分派のジハード勢力ということでした。「コーランか剣か」と言われる(本当はさらに「貢献か」という選択肢があり、さらに、従来よりも税金安くするよーというアメ政策もあって、だいたいこれが選ばれたようです)大侵攻です。750年にウマイヤ朝本家がアッバース家に乗っ取られたのを機に、生き残り王族が下ってコルドバを首都とする後ウマイヤ朝イスラム国を建国。ここから1031年までがイべリアのイスラム勢力が一番まとまっていた時機です。1031年後ウマイヤ朝が途絶え、イスラム小国分立時代となると、キリスト教の反撃が俄然勢いづきます。これが「レコンキスタ」であり、それがこの時機にきてようやっと成功した一因でしょう。
「ポルトガル」ができたこの間、キリスト教側の援軍としてフランス貴族などが多く参戦しましたが、その中の一人、アムス伯レーモンは、レコンキスタの首魁であったアルフォンソ6世の娘ウラカと結婚し、ガリシアの統治を委託されました。さらにモンテーゴ川(コインブラ)以南も任せるという話になりましたが、要は最前線で戦えということでもあり、レーモンは従弟のアンリ(エンリケ)を連れてきます。エンリケはウラカの異母妹テレーザと結婚し、Condado Portucalense (ポルトゥカル伯)に任命されます。エンリケの死後、息子アフォンソ・エンリケスとテレーザが争い、息子が勝ちます(1128年、、、まだリスボン奪回もしていない時期の話)。アフォンソ・エンリケスは同時期に世襲していたアルフォンソ7世(在1126年〜1157年)に対抗して「ポルトガル王」を名乗るようになり、軍事衝突まで起こしていましたが、1143年に和解。世俗的にはポルトガル王国の成立を見ます。教会の承認を得た正式な王となるのは1179年。
|
連絡先など: Blog 趣味の押し付け
最近の更新: <PVI 更新> ポルトガル語動詞活用確認ワークシート(エクセル版)をアップデート(活用の登録漏れ修正)しました。 2006/11/15 < ラジオ局 > ポルトガル語のサンプルということで、ネット放送のリンクを集めはじめました。 2005/6/8 < Cafezinho > ブラジル人、なにかというと、「コーヒー飲みに」出かけます、そのココロを考察したコラムを対訳つきで(ポルトガル語・トピック) < 発音・綴り字読みの集中攻略 > ポルトガル語の発音・綴り字読み関係のまとめコーナーを集中工事中(ポルトガル語・発音)
|
Copyright (c) 2005-2006 Fala-se.com. All Rights Reserved. 当サイト記載事項の無断転載、コピー、フレームに取り込むなどの引用的リンクを禁止します。語学学習情報提供を目的として公開しているページですが、現状、基本的には知り合いにのみに知らせています。掲示板等へのURL貼り付け(h抜き等を含む)はご遠慮ください。内容の正誤については極力留意し、逐次訂正を行ないますが、情報が不正確であることによって生じた損害について、責任を持つことはできません。 |